零〜黄昏の唄〜 1章
幸せの影踏み-8



あと1メートル強という時、大は急に歩を止め、闇に留まった。
光の中心に黒い人の形をしたシルエットが、目に止まったからだ。
髪の長い女性を形どる黒い影は、大の位置からどんな容姿をしているのか目視できないほど遠くに見える。
それは夕焼け色を背に受けて、陽炎のようにゆらゆらと不規則に揺れている。

「……マ……サル……オ……イ………デ……」

その小さな黒い人影はもう一度、大に声をかける。先程と全く同じ口調、優しい声音で。
大は一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと近づいてくるそれを、闇の中から目を凝らし見る。

――何かが頭に引っかかる。

忘れていたことを急に思い出せそうな、喉元に引っかかるもどかしさが大を襲う。
胸元に手を当てて不安げに母親と思しき人影を見つめる。

(…なんでだろ……もやもや…する…)

何故こんなにも胸に得体の知れない不安感が込み上げてくるのか、大自身も理解できなかった。
心臓の鼓動が耳に張り付くように、身体の底から絶え間なく警告を発する。
乾き切った口を潤すため、大は一つ唾を飲み込む。
その間にも、オレンジの光と黒い人影は足並みを揃え、大に少しずつにじみよってくる。

「……マ……サル……オ……イ………デ……」

一定間隔で聞こえてくる単調な声に、始めは感じられたはずの母親の温もりが、機械的で異質なモノに変わっていた。
あれほど待ちわびていた闇を照らす明かりも、大を捕らえようと侵食してくる意志を持った生き物に思えてならない。
大は近づいてくるそれらの不気味な圧迫感から逃げようと、思わず一歩右足を後退させる。

すると人影が一瞬、原型を留めないほど激しくシルエットがぶれた。

その影の変貌は大の眼にひどく強烈に映る込む。同時に、寒くも無いのに全身に鳥肌が立った。

――寒くないのに

はっと息を呑む。いくつもの記憶の断片が、映像になって頭の中をフラッシュバックしていく。
暗い森、優しく微笑む両親の姿、そして――窓を覆い尽くす無数の黒い手
大は全てを思い出し、直感で理解した。

(あれって………あの黒いのと似てる!)

そう気付いた途端、世界が揺れた。

「ああっ!?」

大はその揺れに耐え切れず、その場に尻餅をついてしまう。しかし、実際は揺れてなどいなかった。
夕陽色の光の群れが振動したのを、大の脳が勝手に誤認して身体が揺れていると感じ取ってしまったのだ。
大が立ち上がろうともたついてる間に、光は大の足を飲み込もうと触手を伸ばしてくる。

「やっ!!」

足が光に触れる前に何とか立ち上がり、大は脇目もふらずに元来た闇の中に逃げ場を求める。
どこに行けばいいかなど、大には分からなかった。
ただ、闇の底知れぬ暗さよりも、影の濃さを助長するように色味を増す茜色の光の方が、
身体の芯から冷えるほどの恐怖を隠し持っているように思えた。

あれに捕まったら――死ぬ

大の本能が全身でそう叫んでいた。
息を切らし、先を見通すことの出来ない闇の中をひたすら突き進む。
しかし先程から走り通しの身体はすぐに悲鳴を上げた。それでも走る事だけは止めなかった。
不安から首を少しだけ後ろに回し、様子を見てみた。ほんの少しの期待を込めて。

「ひぁっ!?」

全く気配など感じなかった。
あれほど遠くにいたはずの黒い人影が―――すぐ真後ろにいた。
腰まである長い髪を振り乱した着物姿の女が、俯いた姿で佇んでいる。
しかし、身長の低い大からははっきりと隠された顔が眼に入ってしまった。

「……マ……ザル……オ……ギ………デ……」

その影には目が―――無かった。

「あああああああああ!!」

叫ぶと同時に身体がふっと軽くなり、そこで大の記憶は完全に闇に飲まれた。 
 


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